【横浜中華街/簡易史】20世紀の国際情勢と横浜の南京町

元町・中華街(山下公園)駅

昭和(戦前)の激動期まで

「安政の五か国条約締結」による開港に伴い、日本国内に居留することになった当時の中国人たちは、横浜にてのちの「横浜中華街」のルーツとなる居留地(南京町、ないしは支那町)を形成します。

開港場や山下・山手居留地が華やかな歩みを見せていた明治期、同地は華僑社会の発展に歩みを合わせる形で賑わいを見せ、続く大正期においても当時の横浜有数の人気エリアとして知られるまでに成長したのですが、関東大震災被災・復興から続く昭和初期。

残念ながら、日中戦争や国共内戦による影響を受ける形でしばしの停滞を余儀なくされます。

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第一次国共合作と、第一次国共内戦

国民党と共産党は、元々は中国最後の王朝・清朝打倒後の革命政権(中華民国)において、外敵の中国大陸進出に対処するために共闘を進めていた「はず」の勢力でした。

1924年に始まる国民党・共産党の協力体制は、国民党が主導する中国大陸統治を共産党勢力がサポートするという関係性によって成立した体制で、第一次国共合作と呼ばれますが、ここで注意を要するのは、双方が理想とする「革命」の中身は元々根本から異なっていたという点です。

国民党が唱える「革命」は旧習打破や国内の近代化を理想としたもので、西欧の市民革命が理想とし、日本のいわゆる「明治維新」が急造の建前として掲げた数々の「近代化政策」に近い性質を持っていました。

これに対して共産党が唱える「革命」は、国家権力や富裕層ブルジョアジーの粉砕、および労働者プロレタリア独裁を理想としたものであり、国民党が理想としたゴールはむしろ原理的に打破すべき対象に該当します。

まさに呉越同舟状態ではありますが、時の中国大陸情勢を前提とすれば、お互いの敵が共通かつ強大であったことや、共に打破しなければならない状況(国内の早急な近代化等)が難題となっていたこともまた事実でした。

要は「どちらの「敵」と手を組むのか」という判断に迫られたということですが、孫文指揮下の国民党政権では、共産党員の国民党入党を認めるという形での両勢力「合作」が、あくまで一時的に成立します。

ですが、「中国革命の父」孫文の没後。

新たに実権を握った国民党・蒋介石による国民党内からの左派勢力・共産党員排除(上海クーデター)という形で「合作」は終焉の時を迎え、程なくして内戦状態へ突入します(第一次国共内戦:1927年~)。

第二次国共合作、第二次国共内戦、「二つの中国」

自らのクーデターによる内戦誘発後、安内攘外あんないじょうがい(国内平定後、外敵を退けるの意)の方針によって共産党壊滅後に日本軍に当たろうと画策していた蒋介石ではありましたが、日本軍の中国大陸進出が激化したことなどから張学良らによる力技の説得(西安事件)を受け、不本意ながらも共産党との共闘に転じます。

その結果、再び国民党・共産党両勢力による共闘体制が成立しました(第二次国共合作:1937年~)。

以降の中国大陸では、「国民党・共産党」vs「旧日本軍」という日中全面戦争の構図が鮮明となります。

いわゆる「援蒋ルート」による英米の国民党政府支援も追い風となる形で日中間が和平の機会を失うと、戦争自体も泥沼の様相を呈していくのですが、最終的には1945(昭和20)年の第二次世界大戦終結によって「合作」は崩壊します。

日本軍の武装解除と撤収により、元々敵同士であった両勢力が共闘の理由を失ったことによって訪れた必然とも言える展開ですが、両者はなるべくして武力衝突へと突き進みます(第二次国共内戦:1945年~)。

やがて1949(昭和24)年、蒋介石率いる国民党政府は台湾へ移転、共産党勢力が北京にて中華人民共和国の樹立を宣言すると、台北の『中華民国(台湾)』と北京の『中華人民共和国』という、今に続く『二つの中国』が誕生することとなりました。

日本と台北政府、北京政府の関係

1952(昭和27)年、前年締結されたサンフランシスコ平和条約発効によって独立を回復した日本は、時のトルーマン米大統領やダレス大統領特使などの強い働きかけによる仲介の下、中華民国(台北政府)との間で「日華平和条約」を締結し、台北政府を「唯一正統な中国」として承認します。

日本政府と台北・北京両政府との関係は、「東西冷戦」ありきという現実および「アメリカが主導する西側陣営の一員」としての立場に基づくものです。当時国際的に「正統な中国」として認められていた国連加盟国・中華民国(台北政府、台湾)にしても然りで、蒋介石による国民党独裁の下、アメリカとの同盟関係を盾に北京政府(中国共産党、中華人民共和国)との対立を続けていました。

主権回復と同時に台北政府を選んだ日本にとって、元々北京政府は国交のない政府であり、日本にとって政治的にはソ連よりも遠い、事実上「敵対国家」の位置に留まり続けていた『はず』だったんですね。

スターリンの死と国際情勢の変化

第二次世界大戦後の東アジアに「二つの中国」が誕生し、中国大陸が中国共産党の支配下に入った1950年代。当時の世界を真っ二つに分断していた東西冷戦は、1953(昭和28)年のヨシフ・スターリン(ソ連共産党・中央委員会書記長)の死によって、一つの転機を迎えます。

中国を取り巻く国際情勢において、その変化はまず「中ソ対立」という形で現れました。

スターリン没後、ソ連共産党で実権を握ったニキータ・フルシチョフが「平和共存路線」を掲げて西側に歩み寄ったことに対し、毛沢東率いる中国共産党はこれを「修正主義」(=裏切り)として激しく批判します。

この時代の中国は独自の急進的な社会主義建設を目指す「大躍進政策」の失敗、およびその埋め合わせとして履行された「文化大革命」の動乱期へ突入するなど、毛沢東への個人崇拝と毛沢東による独裁体制をさらに強めていました。

ソ連が融和を始め、中国(北京政府)は時代に逆行し始めた、その行き違いが深刻な対立の理由になったということで、両国の対立は最終的に武力衝突を伴ったものへと悪化しますが(※)、この時大国・アメリカを絡めた国際政治の世界(東西冷戦の態様)は新たなフェーズに突入し、日中関係にも大きな影響を与えました。

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  • ※:珍宝島(ダマンスキー島)事件は、1969(昭和44)年に中ソ両国の国境付近で発生した武力衝突です。ここに両国の対立が鮮明となり、核戦争勃発の懸念も生じたことから、のちのニクソン訪中の遠因になったと見られています。

ニクソン訪中 -戦後日中関係の転換点-

戦後、北京政府(中国共産党)は台北政府(台湾)と外交関係を持った日本政府を強く非難し、激しい憤りを表明し続けていたのですが、1953年の「スターリンの死」は日本・北京両政府間にも一時的な雪解けの気配をもたらし、民間レベルでの交流を促進するきっかけをつくります。

以降、「政経分離」の原則の下、3次にわたる民間貿易協定(50年代)や、その後の日中LT貿易覚書(60年代)が規定する民間主導の交流が進みました(※)。

日本側の立場としては、「中国共産党の党是によって捏造された日本像」が醸す反日感情とセットで進む「民間交流」を、手放しで歓迎することはもちろんできません。かといって、結局のところどこにどんな問題があったことでそうなったのかと考えだすと、問題は「単なる二国間関係」のイメージ以上に多岐にわたります。

今ここではその辺りの事情の一切はさておくとすると、史実としてはここに戦後の日中間の経済交流が生まれ、結局その縁は地道に育つこととなりました。

そんな状況下、日中両国経済的には満を持すタイミングで、反対に日本政治的には突如として生じたのがいわゆる「ニクソン訪中」(1972年)、すなわちアメリカと北京政府(中国共産党)の歴史的な歩み寄りの機会でした。

時の米大統領リチャード・ニクソンは、大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーが前年7月に周恩来首相と極秘会談を行った前提のもと、翌年の自身の「訪中」を電撃発表し、その約半年後(72年2月)に訪中。ニクソン・周両首脳は成果を「上海コミュニケ」(会談での双方の歩み寄りをまとめた形の共同声明)の形でまとめ上げます(※1)。

前記「ダマンスキー島事件」(中ソ対立の顕在化)から3年後のことであり、なおかつ、まだまだ「東西冷戦」が先進各国を縛り付けていた時期に当たりますが、「訪中」翌年には米軍はベトナムから撤退(敗退)し、さらに3年後(75年)には南ベトナムの首都・サイゴンが陥落(中ソの支援を受けていた北ベトナム軍による占拠で、米国がバックアップしていた南ベトナム政府が崩壊)しました(※2)。

忌憚なく言えば、概ねこの時期からいわゆる「パクス・アメリカーナ」(大国アメリカの支配する平和)はじわじわと収束を始めた(自称「世界の警察官」から、いわゆる「アメリカ・ファースト」へ)ということでもあるのですが、そんな時代の大きな衝撃となった「ニクソン訪中」は、

  • 中ソ対立を利用した対ソ牽制的な要素
  • 「泥沼化したベトナム戦争からの撤退」との交換要素(※2)
  • ニクソン大統領や大統領補佐官キッシンジャーが抱えていた佐藤栄作内閣に対する含み(※3)

など、多分にアメリカ側の「戦略的決断」(日本側目線であれば、一方的なアメリカ都合)を含んでいました。

ともあれ、この報を受けた(発足まもない)田中角栄政権は急ぎ北京政府との交渉に乗り出すと、中国側は角栄首相の即断に応じ、最終的には「日中共同声明」発出によって両国の国交は正常化しました(※4)。

「米中」の国交正常化はさらに遅れて1979年のこととなりますが(※5)、この時には日本も「日中平和友好条約」(78年8月締結・10月批准)を締結しています(※6)。

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  • ※2:米軍・南ベトナム正規軍(共和国軍)と対峙していた北ベトナム軍(ベトナム人民軍)や南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が、南ベトナムの首都・サイゴンを占領したのが1975(昭和50)年4月30日で、翌76年には南北ベトナムが「北」の主導下で統一されます。1964年、米軍の自作自演ないしは「言いがかり」だったことがのちに発覚した「トンキン湾事件」を口実として、翌65年から激化・泥沼化したいわゆる「ベトナム戦争」は、東西冷戦の代理戦争としての性格を色濃くもつことや、世界中で反戦運動を巻き起こした(元々「大義」が不明瞭だった)ことでもお馴染みです。
  • ※2捕捉:アメリカがニクソン訪中時に中国側に期待した「北ベトナムへの『圧』」は、結局北ベトナムのソ連依存を高めただけで失敗に終わりました。米中両国の歩み寄りは、中国にとってはのちの中越戦争勃発の一因となった上、米軍の不敗神話も75年の「サイゴン陥落」によって潰えます。結論として、「ニクソン訪中」は「ベトナム撤退」のバーターとして機能しなかっただけでなく、関わった全方位に損失をもたらした形となりましたが、特にアメリカにとってのベトナム戦争は単なる負け戦にあらず、やがて中東で泥沼の争いを展開していく米軍・連邦政府の行く末を暗示するような戦争ともなりました。
  • ※3:「前政権に対する含み」とは、日本からアメリカへの繊維製品の輸出規制が主題とされた日米繊維交渉の場にて、佐藤首相がアメリカ側の主張であった「糸と縄の取引」(沖縄返還と繊維規制のパッケージング)に応じなかったことで恨みを買ったことを意味します。この交渉は、最終的に時の通産大臣・田中角栄の判断によって「アメリカ側の要求丸呑みした上で、国内の繊維業者を血税で救済する」という落とし所に向かいました。
  • ※4:この会談時の朝食会では、北京政府側から角栄首相に(角栄首相が日頃から自宅で親しんでいた、故郷の味である)越後味噌を使った味噌汁が提供されています。一口飲んでそれに気づいた角栄首相が声をあげて驚き、相手のリサーチ力やもてなしの繊細さを再認識したという有名なエピソードがあります。
  • ※5:国交正常化に関する米中共同コミュニケが78年末、発効が翌1月1日です。
  • ※6:日中共同声明は日本と北京政府間の戦争状態の終了と国交正常化を明文化した規定、日中平和友好条約は一般論としての平和条約の体を持つ条約です。

Info

日中国交正常化後の様相

日中国交正常化は、

  • 北京政府:台北政府に代わり、国連で常任理事国就任
  • 台北政府(台湾):国連脱退(事実上の追放)
  • 日華平和条約:日本側の表明により失効
  • 日本・台湾:国交断絶

といった従前の外交秩序の崩壊にもつながりました。

国交が断絶したはずの台湾とは現在も民間レベルで親密な交流が続く一方、正式な国交関係が築かれているはずの中華人民共和国との間には、現在も幾多もの外交問題が横たわっています。民間レベルでも親密な交流が常に担保されているわけではないという、中々難しい状態が創出されていますが、これは現在の東アジア地域が抱える、最大かつ解決困難なパラドックスの一つと言えるでしょう。

ところで、現在の横浜中華街には「台湾支持派」が多い(正確には「大陸支持派」が勢いを失った)としばしば言われますが、この流れを決定づけたのは横浜中華街内部での「何か」ではなく、1989年6月4日に発生した、いわゆる「六四天安門事件」だったとされます。

中国共産党が民主化運動を武力鎮圧したという事件に対しては、横浜中華街内で拮抗していた両勢力(台湾派、大陸派)が中国共産党の方針に対して一様に憤り、大陸派の華僑総会も「六四天安門事件」に対して抗議の声明文を出しています。

総じて、日本、台湾、中国の三国関係は、必ずしも当事国のみの挙動で拗れたわけではないという厄介な経過も持つ分、一つ一つを紐解いていかないとなかなか見え辛い関係を残した状態で今日へと至っています。

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