簡易横浜中華街史
旧・中国人居留地と横浜の南京町
和親条約締結に続く「修好通商条約」=安政の5か国条約締結によって、条約締結国の居留民には一時的な国内滞在ではなく国内への「居住」が認められました。
改めて「長崎以外の場」が欧米に開かれることになったこの時、
- 条約締結国の居留民の中国人通訳(厳密には「買弁」と呼ばれた仲介商人)
- 欧米人の下で下働きをするため来日していた中国人たち
もまた、列強の居留民同様、日本国内に生活拠点を持つ必要に迫られます。
結果、彼らは旧・吉田新田のさらに海側に位置する開拓地の一部・横浜新田を利用する形で居留地を形成しはじめるのですが、この中国人居留地こそが、現在日本三大中華街の一つにして日本最大の中華街である、横浜中華街の原点となった街です。
- 【横浜中華街/簡易史】旧・中国人居留地と横浜の南京町
20世紀の国際情勢と横浜の南京町
開港場や山下・山手居留地が華やかな歩みを見せていた明治期、同地は華僑社会の発展に歩みを合わせる形で賑わいを見せ、続く大正期においても当時の横浜有数の人気エリアとして知られるまでに成長したのですが、関東大震災被災・復興から続く昭和初期。
残念ながら、日中戦争や国共内戦による影響を受ける形でしばしの停滞を余儀なくされます。
- 【横浜中華街/簡易史】20世紀の国際情勢と横浜の南京町
戦後横浜の南京町と、横浜中華街
第二次世界大戦終戦後。
のちの横浜中華街である当時の南京町では、「台湾支持派」と「大陸支持派」の対立が激化し、その争いは中華学校の分裂をもたらします。
その後もしばしの間、激しい対立が継続していくこととなるのですが、
- 華僑たちの生活が長らくに渡って日本に定着してきたこと
- 台湾支持派が台湾出身者に限られなかったこと
- 日中国交正常化を機として日本への帰化者が増加したこと
- 「中国ブーム」が到来したこと
といったきな臭さを打ち消す好材料が重なり、現在の横浜中華街を作り上げる土台となって行きました。
全ては「第二次世界大戦の戦禍を被った横浜」の上に築かれた歴史であり、戦災からの復興と昭和の発展は、戦前とは異なる多様な要素が複雑に絡み合いながら進んでいきます。
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昔の中華街と、今の中華街
1989(昭和64・平成元)年の年末には日経平均が当時の史上最高値を記録するなど、日本経済の好況もピークを迎えるのですが、90年代に入るとほどなく「バブル」が崩壊します(91年)。
以降、日本経済は「失われた〇〇年」と呼ばれる低迷期に突入していくことになるのですが、その影響によって横浜中華街にも空き店舗が目立つようになりました。
この時に中華街の空き店舗を埋めていったのが、元々は華僑外の商売として始まった「占い」です。
「占い」自体、商売としては飲食店ほど景気に左右されるわけではない、かつ元手もそれほどかからないことから、不景気を逆手に取る形で浸透し、やがて新たな中華街名物へと成長を遂げました。
- 【横浜中華街/簡易史】昔の中華街と、今の中華街
about 中華料理
横浜中華街で中華料理を楽しもうと思った場合、知っておくと便利かつ有用な予備知識として、四大中華料理と八大中華料理の区分があります。
ルーツのニュアンスを重視した「菜系」という言葉で表現されることもありますが、いずれも中国の伝統的な料理のスタイルを区分して取り上げたもので、4つ、あるいは8つの各地域ごとに異なる料理の特徴が提示されています。
- 【横浜中華街/街歩きガイド】点心・飲茶、四大中華料理と八大中華料理

