【本牧・根岸/三溪園】聴秋閣(春日局ゆかりの重要文化財)

元町・中華街(山下公園)駅

月華殿から聴秋閣へ

国指定重要文化財・月華殿(内苑地区)からの下り坂道に並行して流れる小川の先に位置しているのが、

こちらも国指定重要文化財となっている聴秋閣ちょうしゅうかくです。

三渓園に正門から入った場合、月華殿や天授院、春草廬等々と並んで、内苑地区の最奥エリアに位置しています。

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  • 【本牧・根岸/三溪園】三渓園(横浜市を代表する日本庭園。本牧地区、バス利用推奨)
  • 【本牧・根岸/三溪園】月華殿、天授院、金毛窟、春草廬(臨春閣西側、「坂の上」エリア)

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聴秋閣と二条城、春日局

徳川家光・春日局とのゆかり

聴秋閣は、かつて京都の二条城内にあったといわれる、徳川幕府三代将軍・家光とその乳母である春日局縁の建造物です。

元々京都の二条城は、初代将軍・徳川家康が自身の征夷大将軍就任の祝賀の儀を執り行って以来、三代将軍徳川家光に至るまで、歴代将軍の就任を祝う晴れの舞台となってきました。

寛永3(1626)年、この二条城が時の後水尾天皇を城に迎える「二条城行幸」にあたり、時の将軍・家光主導のもとで歴史上もっとも華やかに整備・拡張されるのですが、現在の聴秋閣は、この時に造営された「天皇を迎え入れるための壮大な行幸御殿エリア」の一部(付属の茶亭)として建てられたものだと伝わっています(※)。

一大国家イベントであった行幸終了後、役目を終えた行幸御殿群は寺院・重臣たちへと下賜されていくことになったのですが、その時に現在の聴秋閣は、家光から乳母の春日局へと下賜されます。

その後、巡り巡って大正期の三溪園・内苑地区へ移築される運びとなりました。

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  • ※:この点には諸説あり、聴秋閣は行幸御殿には含まれない、すなわち天皇行幸に伴う造営ではなく「元和9(1623)年の家光上洛(将軍就任の祝賀の儀)に際して城内に建てられた茶亭だ」とする説も有力視されています。

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紫衣事件

三代将軍・徳川家光の時代はまた、紫衣しえ事件を巡って一時的に朝廷と幕府の関係が悪化した時代でもありました。

紫衣事件とは、朝廷が(幕府に無許可で)高僧に「位の高い紫の衣」を与えたことに対し、幕府がこの衣を高僧から剥奪した上、対象となった僧侶のうち一部(沢庵ら、幕府の裁定に反発した僧侶)を流罪に処した事件です。

前記した後水尾天皇の行幸は1626(寛永3)年、紫衣事件の発生年はその翌年、1627(寛永4)年です。

1615(慶長20)年に大坂夏の陣が終わり、「元和偃武げんなえんぶ」(※)と呼ばれる「徳川がもたらした平和」の時代が到来することになったその約10年後の話ですが、当時は未だ朝廷・幕府間の力関係が「確定した」と言い切れない状態にありました。

騒動に先だって行われた行幸御殿増築は三代将軍徳川家光主導の事業であり、家光の上洛や行幸御殿増築にしても「朝幕間の円満関係アピール」を狙って行われたものではあったのですが、その行為が皇族・皇室に対する他意や政治的な含みが全くないものだったのかといえば、幕政の中枢を担う法規制実施によって「そうではない」ことは明白となっていました。

時の幕府は「朝廷と武家、朝廷と寺院勢力の癒着」がもたらした失敗を「過去数百年近くに及ぶ武家社会の統制や波乱」に学ぶ形で、既に天皇や公家の政治的行為自体を「禁中並公家諸法度」(1615年制定)の形で明文規制していた、すなわち、そもそも蜜月演出自体が幕府主導の政治的意図とともにあった形になります。

そんな時代に発生したのが「紫衣事件」で、この一件を通じて朝幕双方の意識に名・実間の乖離があったことがあらわになると、事後の融和を通じて双方の力関係に明確な一線が引かれます。

幕府側目線ではこの法に触れたことが僧侶・沢庵らの処罰根拠ではあったものの、この一件で自身の権威を踏み躙られた形になった後水尾天皇は、自身が幕府に無断で娘(明正天皇)に譲位したのち院政を敷くなど、朝幕間は表向き冷戦状態に突入する形となるのですが、

  • 代替措置として幕府は朝廷に多大な資金援助を実施し、それが京を中心とする寛永文化発展の原資となった(政治的な行為を統制すると同時に文化的な行為を奨励・支援したという、「飴と鞭」的な政策が実施された)
  • 後水尾天皇が譲位した娘=明正めいしょう天皇は、そもそも徳川家の血を引く女帝(二代秀忠の娘、三代家光の妹にあたる徳川和子まさことの間の子)だった
  • 徳川和子のように、幕府・朝廷双方の間に立って仲裁を進めることができる人物が存在した
  • 幕府は「本音をオブラートで包んだ」後水尾天皇の譲位を、平和的に事後承諾することになった

ということで、そもそも「表向きの冷戦」と言ったところで、時の朝幕間には大規模な紛争に発展する素地自体が無く、双方の緩やかな融和・和解とともに進んだのは「幕府の法が勅許に優先する」ことの事後承認でした。

すなわち、皇族を筆頭とする朝廷の役割は文化・伝統・権威の継承であり、「民・社会の統治」それ自体(政治的権力)については幕府に優位性が認められたと言う双方の役割分担が、ここに確立されます。ややバタ臭いのちの言葉で言うところの「象徴天皇制」に近いあり方を17世紀初頭の時点で選択できていたのは、当時の武家社会の粋がもたらした慧眼や知性の故でしょう。

議会制民主主義の先進国・イギリスでは名誉革命が17世紀後半に成立し、「(国王は)君臨すれども統治せず」の立憲君主制へと至る素地が作られていますが、「君主から政治権力が剥奪された」動きとしては日本がやや先行した形ですね。

以降は、たとえば大嘗祭の再興を主導した霊元院(上皇、112代霊元天皇)や、幕府と極めて良好な協調関係を築いた中御門天皇(114代)、桜町天皇(115代)、のちの「学習院」の前身である「学習所」を作った仁孝天皇(120代)など、江戸時代の「ほぼ」全期間を通じ、朝廷は幕府の多大な支援をベースとして、文化・伝統面をリードし続けます。

この期間の国政を一手に担っていたのが、「戦士」から行政官、司法官、学者、教育者等々へと姿を変えた武家階級で構成される江戸幕府の統治(幕藩体制)でした。もちろん完全無欠の体制ではなかったにせよ、「ただ幕府の独裁都合で朝廷・皇族が冷遇された時代だった」などという陳腐・浅薄な史観で見通せるような時代では全くもってなかったんですね。

「朝廷に政治的なフリーパスを残したままだと、「権威」を欲するよからぬ者・勢力に世を乱す隙を与えることになる」という教訓にしても、「尊皇攘夷」という名実かけ離れたお題目が先行した結果の倒幕運動や戊辰戦争、その後の士族反乱、さらには二次大戦参戦による手痛い犠牲等々を経るまでもなく、江戸初期の時点で明確に「答え」が出されていた形になります。

と、この辺りで話を二条城に戻しますが、三代家光の時代までは密接だった二条城と将軍家の関係も、四代以降は長きにわたり疎遠な時期が続きます。

とはいえ、武威を誇示するための城を将軍自らが使う必要がなくなったこと自体、ひとえに世が泰平であったことの証左でもありました。

時は巡って「二条城と将軍の縁」が復活するのは幕末期の話です。

14代将軍徳川家茂が家光以来となる229年ぶりの将軍の二条城入城を果たすと、15代将軍・徳川慶喜は二条城内で征夷大将軍に就任し、かつ二条城内で大政奉還(政権を朝廷に返上する宣言)を行いました。

結果として江戸時代始めの三代と最後の二代、その「はじまり」と「終焉」の節目において共に幕府・将軍家に絡むこととなったという二条城は、今も江戸城と並んで江戸時代を象徴するお城の一つだと解されています。

◾️関連ガイド

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  • ※:「偃武」とは「武」が「偃」=倒れる、やめるの意味で、名実共に戦国時代が終わったことを意味しています
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