【本牧・根岸/三溪園】亭榭(ていしゃ。内苑地区の小さな池に架けられた橋)

元町・中華街(山下公園)駅

三溪園・内苑地区に位置する小さい池の向こう、臨春閣りんしゅんかくを望める位置にかけられた橋が亭榭ていしゃです。

亭「榭」とは、見晴らし台を意味します。

すぐ傍には重要文化財・旧天瑞寺てんずいじ寿塔覆堂じゅとうおおいどうが位置していますが、

寿塔じゅとうとは生前墓、覆堂おおいどうとはそれを収めるための建造物です。

内苑地区の小さな池の上に架けられた「亭榭」は、秀吉の正室である高台院こうだいいん(北政所・ねね)が秀吉没後に秀吉を弔うために建てた京都・高台寺の観月台かんげつだいをモデルとしているようですが、一方でその手前に位置する覆堂は、豊臣秀吉が母である大政所おおまんどころの長寿を祝う形で、桃山時代(16世紀末)に作りました。

亭榭と旧天瑞寺寿塔覆堂、秀吉ゆかりの二つの文化財をまとめて望める臨春閣は、「三溪」原富太郎さんが「聚楽第」の残存部分であることを期待して購入したとされる、これもまた秀吉ゆかりと言えなくもない建築物でした(※)。

「園内のプライベートな一画が秀吉尽くし」というこだわりからは、明治の世を生きた財界人が持っていたのであろう「太閤・豊臣秀吉の立身出世物語」に対する崇敬の念が、時を超えて伝わってくるように感じます。

ただし現実やいかにと言えば、このうち臨春閣の「ゆかり」には元々購入時点で疑念が含まれていました。

現在では「臨春閣は聚楽第の一部ではなかった」と判断されているようですが、この点は逆に文化財・美術品それ自体に対する選定者の確かな審美眼や、大事を為した人特有の「直感的な何か」が働いた結果の絶妙な配置につながったのではないか、とも伝わります。

臨春閣の価値が「聚楽第ではなかった」ところで揺るがないものであったからこそ、結果的に、「より趣深い一帯」を内苑地区の一角に作り上げることになったのですからね。

結論として臨春閣付近一帯では、「儚い天下と共にあった豊臣時代、天下泰平の江戸時代」という、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて「歴史の流れ」が生み出したものを、後世に残された建造物を介して追体験することができます。

◾️関連リンク

Guide

  • 【本牧・根岸/三溪園】三渓園(横浜市を代表する日本庭園。本牧地区、バス利用推奨)
  • 【本牧・根岸/三溪園】臨春閣と身代わり灯篭(国指定重要文化財)
  • ※:聚楽第は、元々は関白時代の豊臣秀吉の住居・政庁として建造された施設ですが、のちに秀吉の後継をめぐる諸般の事情から、秀吉の命によって破壊されています。

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