【日本大通り/関内】横浜公園(JR関内駅前、日本大通り傍)

日本大通り(県庁・大さん橋)駅

about 横浜公園

ロケーション

横浜公園は、JR根岸線関内駅(みなとみらい線であれば日本大通り駅)を最寄駅とする公園で、公園内に横浜DeNAベイスターズの本拠地、横浜スタジアムを有する公園としてもお馴染みです(※)。

公園南部の中央付近が開港以来の横浜中心部の象徴である日本大通りに通じているほか、公園の西部・東部はそれぞれみなと大通り・大さん橋通りに挟まれていて、公園の東部には横浜中華街がほぼ隣接する位置に広がっています。

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沿革

今の横浜公園の象徴である横浜スタジアムの存在を柱としてみる場合、横浜公園は、

  • 開園前夜:港崎遊郭と幕末の大火
  • 「前身」の誕生:彼我公園の誕生とクリケット場の設置
  • 名称変更:明治末、開港50周年を機に彼我公園が「横浜公園」へ
  • 震災からの復興:クリケット場が野球場・野外音楽堂へ
  • 接収期と接収解除後:球場名の変更と「ハマスタ」誕生
  • DeNAによる球団買収後:球場と公園の改修(ウイング席増設、「彼我庭園」誕生)

と、不可避の事情やメモリアルイヤー、公園内施設の所有者変更等々をキッカケとする形で、段階的な進化を遂げてきました。

土地との深い因縁や当初からの計画性がもたらしたというよりは、「結果、こうなった」感の方を強く持つ公園のそもそもの始まりは、開港7年後の慶応2(1866)年にあります。

この年開港場で大火災が発生し、当時の関内地区のインフラの大半が焼失したことが、エリア一帯にとっての大変革の契機となりました。

復興時、まずは開港場の中心エリアに「延焼防止エリア」機能を持たされたという日本大通りが着工したことを皮切りに(※1)、庁舎の再建・再編も同時進行します。

大火以前と以後で関内エリアのあり方は一変したとされていますが、明治9(1876)年には旧・港崎遊郭(※2)跡地に、現在の横浜公園の前身である日本人・外国人共用の「彼我公園」(※3)が、クリケット場を持つ公園として設置されました。

その後明治42(1909)年。横浜港が開港50周年を迎えたこの年、今ではお馴染みとなった横浜市歌が作られるなど祝賀ムード一色の中、彼我公園は「横浜公園」に名称変更されました。

以上から、公園の誕生を始まりとするなら明治9年、名称の一致を始まりとするなら明治42年が、それぞれ横浜公園の誕生年にあたりますが、明治期には野球やラグビーなど「初めての国際試合」で賑わった彼我公園(※4)も、1923(大正12)年の関東大震災では壊滅的な被害を受けてしまいます。

復興後には、かつてのクリケット場が野球場・野外音楽堂に姿を変えた「新生・横浜公園」となりました。

現在の横浜公園内、日本大通り側に作られた噴水も、かつて復興時に作られたものがそのまま現在まで利用されています。

その後終戦年である昭和20(1945)年、公園内施設を含む横浜公園は米軍に接収(強制収奪)され、「冬の時代」を迎えることとなりますが、1952(昭和27)年には接収が解除されて日本側へ返還されます。

その間、公園名は一貫して「横浜公園」のまま激動期をくぐりますが、一方で返還と同年以降「横浜公園平和野球場」となった「横浜公園の野球場」は、やがて施設の老朽化問題に直面したことから、最終的に昭和53年に「横浜スタジアム」として新設されることになりました。

この時同時に作られた「横浜公園内の北東方向に位置する緑が多い一帯」は、2017(平成29)年、「全国都市緑化よこはまフェア」=ガーデンネックレス横浜の開催に合わせて「彼我庭園」と命名され、現在の形に再整備されています。

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  • ※1:竣工年には明治3年説、8年説、11年説など諸説ありますが、概ね明治10年前後には(「解釈」ではなく、一般にそれとわかる状態に)竣工していたようです。
  • ※2:※2:公園設置前には、外国人を居留地に引き留めたい幕府の思惑と、歓楽街を歓迎する居留欧米人の思惑が一致する形で、江戸の吉原遊廓を模した港崎遊郭が栄えていました。大火後、遊郭はまずは関外の伊勢佐木エリアへ、さらに高島町エリアへと移転した後、現在の永楽町・真金町エリアに当たる「永真遊廓」へと落ち着きます。開港期以来の流れを汲む遊郭は、最終的には現在の横浜橋商店街の東側一帯にあたるこの地で、売春防止法施行(昭和33年)による終焉を迎えました。
  • ※3:彼我とは「彼」=外国人、「我」=日本人の意であり、「外国人と日本人共用の公園」といった意味が含まれています。
  • ※4:【みなとみらい線沿線さんぽ】近代横浜の始まり -開港地での共存-
  • 【みなとみらい線沿線さんぽ】横浜市歌の制定(横浜開港50周年事業)

リチャード・ヘンリー・ブラントン

横浜公園や日本大通りを設計し、日本初の鉄道敷設にあたっても多大な尽力をした英国人土木技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンさんの胸像は、現在も横浜公園内、日本大通り側の入り口傍に置かれています。

根岸線・関内駅高架下(馬車道商店街傍)には、同じくブラントンさんの実績である日本初のトラス構造の鉄橋「鉄かねの橋」に関する記念碑が置かれています。

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横浜公園と横浜スタジアム

公園の「スキマ部分」(公園南西部、北東部)にウイング席が増設され、さらにはバックネット裏の大規模改修工事が竣工した現在、「横浜スタジアムに公園が付いている」という感じの、とてもバランスが取れた状態が整いました。

日本大通り側入り口付近の一帯から、旧横浜市役所・JR関内駅方面に抜けていく一帯に作られたスペースは、毎年春になるとチューリップが華やかな一帯でもありますが、現在残された横浜公園的なスペースのメイン部分にあたります。

参考

  • 【日本大通り/関内】横浜スタジアム(横浜公園内、日本大通り傍)

彼我庭園

日本大通り側入り口から横浜公園に入ったとき、左手に位置する日本庭園が彼我庭園です。

命名は、かつての公園名である「彼我公園」にちなんでいます。

昭和53(1978)年に横浜スタジアムのこけら落としと同時に造園され、平成28(2017)年には、都市緑化フェアの横浜開催を記念して「彼我庭園」と命名されました(※)。

入り口は横浜公園内に三か所、大さん橋通り沿いに二か所用意されていますが、

庭園内は池を取り囲む散策コースになっています。

落ち着いた雰囲気を持つ庭園内は、

都心部に作られた「憩いの場」的な空気が魅力です。

庭園内からは横浜スタジアムのウイング席が見えていますが、この微妙なミスマッチ感も彼我庭園の持ち味です。

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